言葉になる前のかたち—島と東京を往復しながら考える、暮らしと創造性

 2026/09/09

ランニングをしていると、ときどき仕事とはまったく関係のないところから、仕事について考え始めることがあります。

たとえばロゴをデザインするとき、いきなり形から考え始めることはほとんどありません。依頼いただく方や企業がどこに本質を見出し活動しているのか、どんな背景があるのか、これからどこへ向かおうとしているのか。話を聞き、調べ、考え、まずは言葉によってコンセプトを組み立てていきます。

ところが、ある程度まで考えをまとめたあと、実際に形を探り始める段階では、あえてそれまで積み上げてきた言葉から少し離れようとします。

紙の上に線を引く。
丸を描く。
崩す。
重ねる。
消す。

なるべく「こういう形にしよう」と決めすぎずに、手を動かしながら探っていくのです。すると不思議なことに、頭で懸命に考えていたときよりも、「これかもしれない」と確信できる形が突然現れることがあります。
あれは一体、何なのでしょう。

言葉によって、世界を切り分ける

そんなことを考えながら走っているうちに、人間と言葉の関係について考え始めました。私たちは目の前にあるものに名前をつけます。

海。山。木。鳥。人。
美しい。大きい。速い。優しい。

名前をつけることで、世界の一部を取り出し、誰かと共有することができます。けれど考えてみれば、私たちは世界のすべてを、言葉にしてから感じているわけではありません。

海を見て「美しい」と口にするより前に、すでに何かを感じている。料理を食べて「おいしい」と言葉にするより前に、身体は何かを受け取っている。初めて会った人に対しても、その人を説明する言葉を探すより先に、何となく感じているものがあります。

言葉は、そうして受け取ったものに輪郭を与え、誰かと共有できるものにしてくれます。一方で、言葉にした瞬間に、そこからこぼれ落ちてしまうものもあるのではないでしょうか。

だとすると、デザインをするときに無心で線を引く行為は、一度、言葉によって切り分けた世界から少しだけ離れてみることなのかもしれません。

「優しい形とは何か」
「この会社らしさとは何か」
「島らしさとは何か」

そうした言葉による定義をいったん脇に置き、まだ名前のついていない線や形を眺めてみる。そこには、言葉になる少し前の何かがあるようです。

手は、自分が説明できないことまで知っている

ここで思い浮かぶのが、哲学者マイケル・ポランニーの「暗黙知」という考え方です。ポランニーは『暗黙知の次元』で、人間には、言葉ですべてを説明することのできない「知」があることを論じています。

たとえば自転車の乗り方を、身体の傾きやハンドル操作まですべて言葉で説明することは難しい。それでも、一度乗れるようになれば身体は自然にバランスをとります。

デザインにも似たところがあります。

文字と文字の間隔をほんの少し広げる。
線をわずかに細くする。
余白をもう少しとる。

なぜそうした方がよいのか、あとから説明することはできます。でも、その瞬間の判断は、必ずしも言葉から始まっているわけではありません。

「こっちの方がいい。」

まず身体のどこかがそう感じ、そのあとに理由を探していることも多いのです。
だからといって、それは根拠のない勘ではありません。

これまで見てきたもの。
描いてきたもの。
失敗したもの。
美しいと思ったもの。
違和感を覚えたもの。

そうした膨大な経験が、自分でも整理できないまま身体の中に蓄積され、目の前の形を判断するときに働いているのではないでしょうか。

少なくとも私自身、頭の中に完成した形があって、それをそのまま紙に写している感覚はほとんどありません。

線を引く。
その線を見る。
そこから何かを感じて、もう一本引く。
少し崩してみる。
すると、最初には想像していなかった形が現れる。

描いたものを見て、また手が動く。
そうやって行ったり来たりしているうちに、いつの間にか「これだ」と思える形に出会うことがあります。無心で線を引くということは、考えることを放棄しているわけではなく、むしろ、言葉とは別の方法で考えているのかもしれません。

デザインは、仕事の外で育っている

そして暗黙知について考えていると、もうひとつ気になることがあります。デザイナーの暗黙知は、一体どこで育つのでしょう。デザインの仕事をたくさんすれば、それだけ経験は蓄積されます。けれど、それだけではない気がするのです。

美しい夕焼けを見る。
知らない土地を歩く。
誰かと話す。
美味しい料理を食べる。
歴史のある建物に入る。
森の中を歩く。
音楽を聴く。
本を読む。
旅をする。

そんな、一見すると仕事とは関係のない時間も、自分の中の何かを少しずつつくっているのではないでしょうか。

料理の余白が、いつかグラフィックの余白になるかもしれない。
人との心地よい距離が、情報と情報の距離になるかもしれない。
風景の中で感じたバランスが、いつか構図として現れるかもしれない。

もちろん、どの経験がどのデザインにつながったのかを確認することはできません。むしろ、その関係を簡単には説明できないところに、暗黙知というものの面白さがあるように思います。そう考えると、奥行きのあるデザインをするためには、仕事の技術を磨くだけでは足りないのかもしれません。

世界をどれだけ受け取っているか。そのこと自体が、つくる力につながっているように思います。

そして、ここで大切なのは、「デザインの役に立つから、美しいものを見よう」という話ではなく、何に役立つのかをあらかじめ決めずに、目の前のものに心を動かされること。知らない人との会話に思いがけず引き込まれたり、初めて見る風景の前で立ち止まったり、美味しい料理に夢中になったりすること。

そのときには何の役にも立たなかった経験が、ずっと後になって、思いもしなかったところから現れることがあります。

島と東京、そのあいだを移動する

私は伊豆大島で暮らしながら、仕事などで東京都心へ行く機会も多くあります。

距離だけを見れば、それほど離れているわけではありません。けれど、そこに流れている時間や、目に入ってくる情報、人との距離、自然との関係はかなり違います。

島では、風の強さによって船が出るかどうかが変わる。
季節によって海の色が変わる。
知っている人と道ですれ違う。
誰が魚を獲り、誰が野菜を育て、誰が店を営んでいるのか、暮らしと仕事の輪郭が比較的見えやすい。

東京へ行けば、別の刺激があります。
新しい建築や店が生まれ、広告やファッションが変わり、多くの人と情報がものすごい速度で行き交っています。

どちらがクリエイティブなのか、という話ではありません。
私が面白いと感じているのは、そのあいだを移動することです。

島にずっといれば、島の風景も日常になる。
東京にずっといれば、東京の速度も日常になる。

けれど、東京から島へ戻ってくると、いつも見ていたはずの海の広さに改めて気づくことがあります。島から東京へ行けば、人の歩く速度や看板の多さが妙に気になったりします。場所が変わったことで、世界そのものが変わったわけではありません。変わっているのは、自分の「見る」という行為なのでしょう。

哲学者の國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』のなかで、生物学者ユクスキュルの「環世界」という考え方を取り上げています。

同じ場所にいても、それぞれの生きものは、自分にとって意味のあるものによって構成された異なる世界を生きている。そして人間は、ひとつの環世界だけに閉じ込められるのではなく、さまざまな環世界へと移っていくことのできる存在として描かれています。

島と東京を往復することを、そこまで大げさな話にするつもりはありません。それでも、異なる環境のあいだを行ったり来たりすることで、自分の中の「当たり前」が揺さぶられるという感覚は確かにあります。

見慣れていたものを、もう一度見る。
気づかなかったものに、改めて気づく。

その小さな揺らぎが、凝り固まりそうになった自分の知覚を、少しずつほぐしてくれているように思います。
二つの場所を持つことそのものが創造性を高める、と言いたいわけではありません。むしろ私にとって大切なのは、異なる世界のあいだを移動することで、ひとつの見方に慣れきってしまわないことなのだと思います。

暮らすことは、つくること

そう考えていくと、デザインをしている時間だけが、デザインをつくっているわけではないのかもしれません。

島で夕日を眺めている時間も。
東京の街を歩いている時間も。
誰かと食卓を囲んでいる時間も。
知らない場所を歩いている時間も。

そこで身体が受け取ったものは、自分でも気づかないところへ、少しずつ沈んでいきます。そしていつか紙に向かい、何気なく一本の線を引いたとき、そのどれかが形になって現れる。けれど本人には、なぜその線を引いたのか、うまく説明できない。ただ、「これだ。」と思う。

デザインとは、言葉で考えることと、言葉を手放すことの往復なのかもしれません。
考えて、考えて、考えたあとに、一度それを身体へ預けてみる。そして、まだ言葉になっていないものを手で探し、現れた形をもう一度言葉によって確かめる。

言葉から形へ。
形から言葉へ。

そのあいだを行ったり来たりする。

考えてみれば、島と東京を往復する今の暮らしも、それによく似ています。ひとつの場所に答えを求めるのではなく、異なる世界のあいだを移動しながら、自分の感覚を少しずつ更新していく。

クリエイティブとは、何かを生み出す技術だけではなく、世界を受け取る感覚を、暮らしの中で育て続けることなのかもしれません。だとすれば、私が無心で引いている一本の線は、そのずっと手前にある日々の暮らしから、すでに始まっているのかもしれません。

参考文献

  • マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』高橋勇夫訳、ちくま学芸文庫、2003年
  • 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』新潮文庫、2021年

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