とりさらわれる余白を持つ

 2026/06/20

都市と島を往復しながら考えた、退屈とライフプロジェクト

國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を、久しぶりに読み返しました。
一度目に読んだときにも、多くの発見があった本書ですが、時間を置いて再び手にすると、以前とは違う言葉に引っかかります。読む側の環境や経験が変われば、同じ本から受け取るものも変わるのでしょう。

今回、特に興味を引かれたのが、人間の持つ「環世界間移動能力」についての話でした。
環世界とは、簡単にいえば、それぞれの生物が知覚し、その生物にとっての意味を見いだしながら生きている固有の世界のことです。人間は、ほかの動物に比べて、ひとつの環世界から別の環世界へ移動する能力が極めて高いといいます。

たとえば、仕事では立場や役割に応じて振る舞い、家に戻れば家族として過ごします。趣味に没頭しているときには、目に入り、意味を持つものも変わります。現代を生きる私たちは、このように一日のうちにいくつもの環世界を行き来しています。さらにスマートフォンを開けば、インスタグラム、X、仕事のチャット、ニュース、趣味のコミュニティへと、ほんの数秒で異なる世界に移動できます。

かつてないほど多くの世界に接続できるようになったはずなのに、私たちはなぜ、満たされなさや退屈を感じるのでしょうか。

注意を奪われることと、とりさらわれること

スマートフォンは、世界への入口であると同時に、無数の世界から私たちを呼び出す装置でもあります。
仕事のメッセージが届けば、すぐに返事をしなければならないように感じる。SNSに投稿すれば、反応の数が気になる。新しい製品やサービスが登場すると、今あるものが急に古くなったように思えてくる。
自分の意思で環世界を移動しているつもりが、実際には、さまざまな環世界からひっきりなしに召喚されている。
気づけば、心までその動きに振り回されています。

『暇と退屈の倫理学』では、人が退屈を逃れる状態のひとつとして、何らかの対象に「とりさらわれる」ことが語られています。

「とりさらわれる」とは、たとえば、ある作品や土地、目の前の問題が頭から離れず、気づけば考え続け、手を動かしているような状態です。思考せざるを得ない何かに出会い、その対象から離れられなくなる。そのとき人は、一時的に環世界を移動する能力を低下させ、ひとつの世界に深く入り込みます。

ここでいう「とりさらわれること」と、スマートフォンに注意を奪われることは、よく似ているようで、かなり違います。注意を奪われているとき、対象は次々と切り替わります。何かを見たと思えば、すぐに次の情報へ進み、後にはほとんど何も残りません。一方、本当に何かにとりさらわれたとき、人はその対象の前で立ち止まります。

なぜ気になるのか。
何が自分を揺さぶっているのか。

考えずにはいられなくなります。

現代人は、何かに夢中になりすぎているわけではないのかもしれません。むしろ、注意を小刻みに奪われ続けることで、ひとつのものに深く夢中になる余裕を失っているのではないでしょうか。

楽しむことから、思考は始まる

人間は、生きていくために習慣をつくります。毎回すべてを考えながら行動していては疲れてしまうため、周囲の環境を理解し、考えなくても暮らせる状態を少しずつつくっていきます。しかし、習慣によって安定した環世界を獲得すると、人はその中で退屈します。

安定がなければ生きていけない。
けれど、安定すれば退屈する。

そこには、人間が避けることのできない矛盾があります。

本書の終盤で印象的だったのは、退屈を紛らわせる気晴らしや、楽しみそのものを否定していないことでした。

食べること。
音楽を聴くこと。
映画を見ること。
旅をすること。

人間は退屈を生きる中で、さまざまな楽しみを生み出してきました。そこから、文化や文明と呼ばれる営みも生まれています。大切なのは、それらを十分に享受することなのだといいます。

食べることを楽しんでいれば、やがて食材や調理方法、その土地の文化について考えるようになる。映画を楽しんでいれば、映像や物語、その背景にある社会について考え始める。本書では、楽しむことと思考することは、どちらも物事を「受け取ること」なのだと述べられています。

情報を次々と消費するのではなく、ひとつのものを満足するまで楽しむ。そうして物事を受け取る力を育てることで、あるとき自分の環世界へ不意に入り込み、思考を強いる何かも受け取れるようになります。何が自分をとりさらうのかは、あらかじめ分かりません。だからこそ、楽しみながら、受け取れる状態で待つ必要があるのでしょう。

「やらずにはいられない」から始まるもの

以前、個人の「やらずにはいられない」という衝動から始まる活動を、ライフプロジェクトという考え方に重ねて記事を書きました。

東京の島々で「自分らしい仕事」は、いかにして生まれるのか?ーライフプロジェクトという“起点”

小さな内発性が島の未来を動かす。伊豆大島の椿の備長炭、新島の塩、空き家再生の宿と商店。事業承継・創業オンラインセミナーの後記として、東京諸島発ライフプロジェクト4つの実践と、ソーシャルイノベーションの芽をたどります。

ライフプロジェクトは、組織から与えられた業務でも、社会から求められた役割でもありません。自分自身の経験や関心から生まれ、気づけば手を動かさずにはいられなくなっている営みです。今回の読書を通じて、そのような衝動が生まれる前には、何かに「とりさらわれる」経験があるのではないかと思うようになりました。

ある土地に心を奪われる。
目の前の問題を放っておけなくなる。
ある表現や文化について、考え続けてしまう。

最初から合理的な目的や事業計画があるわけではありません。何かを楽しみ、受け取り、考えているうちに、「こうしたい」「自分がやらなければ」という感覚が生まれてきます。そうしてとりさらわれた経験を一時的な熱狂で終わらせず、持続的な営みへと変えていくものが、ライフプロジェクトなのかもしれません。

そして、その活動が他者とつながり、地域の課題や社会の仕組みに働きかけるようになれば、やがてソーシャルイノベーションへと発展していくこともあります。

とりさらわれる瞬間が衝動へとつながり、その衝動がライフプロジェクトとなって、少しずつ社会へ開かれていく。その起点にあるのは、日常の中で何かを十分に楽しみ、受け取る力なのだと思います。

都市と島のあいだで、衝動を待ち構える

島で暮らしていると、同じ場所であっても、季節や天候、時間帯によって、自然の表情が大きく変わることに気づきます。

同じ海。
同じ森。
同じ道。

けれど、光や風、雲、鳥の声、草木の様子は、毎日少しずつ違います。心身は穏やかになる一方で、感覚はむしろ鋭くなっていくように感じます。

スマートフォンでは、新しさを求めて対象を次々と取り替えます。島の自然の中では、同じ場所にとどまりながら、その変化を受け取ります。それは、自分をとりさらう何かに気づくための余白を整える時間でもあるのかもしれません。

一方、都市には、島では出会えないアートやカルチャー、技術、思想、人との出会いがあります。たまに都市へ行くと、それらをスポンジのように吸収している感覚があります。そして島へ戻ると、都市で受け取ったものが、自然の環境音や風景の中で少しずつ沈殿していきます。そこで新しい考えが生まれ、イメージのスケールが広がっていきます。

都市で異質なものに出会い、島でそれを受け止める。
島で育った感覚を、都市の文化や技術に触れることで形にする。

島と都市を行き来することは、退屈から逃げるために環世界を切り替えることとは少し違います。片方で受け取ったものを、もう片方へ持ち帰る。そのことによって、それぞれの世界の見え方が少しずつ変わっていく。振り子のような往復です。

とりさらわれる余白を持つ

島と都市を往復すれば、必ず夢中になれる何かが見つかるわけではありません。島であっても退屈はします。都市にいても、物事を深く受け取ることはできます。重要なのは、場所そのものではなく、世界との関わり方なのだと思います。

退屈を感じられるほどの平穏を持つこと。日々の食事や風景、文化を十分に楽しむこと。自分の習慣を揺さぶる異質なものにも出会うこと。そして、「やらずにはいられない」という衝動が生まれたとき、それをすぐに打ち消さず、少しずつ育ててみること。

都市か地方か。
自然かテクノロジーか。
仕事か暮らしか。

どちらか一方を選ぶのではなく、そのあいだを行き来しながら、双方の世界から何かを受け取る。その往復の中に、新しい暮らしや仕事、社会との関わり方が生まれる可能性があります。

東京都離島区というメディアも、読者の注意を奪い、次々と情報を消費させる場所ではなく、島と都市の異なる世界を伝えることで、誰かの環世界に小さな揺らぎを生み出す場所でありたいと思います。

必要なのは、退屈しない生活をつくることではありません。いつか自分をとりさらう何かを受け取れる余白を、日々の中に残しておくことなのかもしれません。

参考文献:國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』新潮文庫、2022年

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